主日のメッセージ(2016年12月4日~2017年2月26日)


 

 

年間第8主日(2017年2月26日)

   マタイによる福音書第6章24~34節

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    司式 近藤 光彦 神父

 

 

 〔そのとき、イエスは弟子たちに言われた。〕「だれも、二人の主人に仕えること

はできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どち

らかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。 

 だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分

の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よ

りも大切ではないか。空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納

めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よ

りも価値あるものではないか。 あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、

寿命をわずかでも延ばすことができようか。なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の

花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。 しかし、

言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなか

った。 今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装

ってくださる。 まして、あなたがたにはなおさらのことではないか、信仰の薄い者た

ちよ。 だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思

い悩むな。それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、こ

れらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。何よりもまず、神の国と

神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。 だから、

明日のことまで思い悩むな、明日のことは明日自らが思い悩む、その日の苦労は、そ

の日だけで十分である。」

 

 

 


  

年間第7主日(2017年2月19日)

   マタイによる福音書第5章38~48節

 

 

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    司式 加藤 鐵男 神父 

 

 

 〔そのとき、イエスは弟子たちに言われた。〕「あなたがたも聞いているとおり、

『目には目を、歯には歯を』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。悪人

に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさ

い。あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい。だれかが、

一ミリオン行くように強いるなら、一緒に二ミリオン行きなさい。求める者には与え

なさい。あなたから借りようとする者に、背を向けてはならない。 

 あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。し

かし、わたしは言っておく。敵を愛し自分を迫害する者のために祈りなさい。あなた

がたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者

にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。自分を愛してくれる人を愛

したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。徴税人でも、同じことをしてい

るではないか。自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優れたことをしたことに

なろうか。異邦人でさえ、同じことをしているではないか。だから、あなたがたの天

の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」

 

 

 

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年間第7主日のミサ説教要旨

「敵を愛しなさい」 

                         加藤 鐵男 神父  

 

 洗礼を受けて5年後の1995年に東京八王子でスーパー強盗事件がありました。閉店

後の午後 9時15分頃2階の事務所に拳銃を持った何者かが侵入し、居合わせた47歳の

性が撃ち殺されました。アルバイトの女子高生17歳と16歳の二人は、口に粘着テー

を貼られ互いの右手と左手を縛られ後頭部を至近距離から撃たれて即死の状態でし

た。

 教会でこの話題になったときに、私がこの高校生の親だとしたら犯人は絶対許さな

と声を荒げて発言したことを今でも覚えています。

 しかし、後になって今日の福音書の「敵を愛しなさい」という言葉を聞いたとき、

私は愛せないと自問自答したことも覚えています。

 イエスは言います、「敵を愛し、自分を迫害する者ために祈りなさい」と。

 その理由として、御父は悪人にも善人にも等しく太陽を昇らせ、雨を降らせくださ

るからであると言われます。

 自分を愛してくれる人を愛したところで、どんな報いがあるのか。あの嫌われ者の

徴税人でも同じ事をしている。だから、天の父が完全であられるように、あなたがた

も父のように完全なものとなるように努力しなさいと。

 しかし、本当にこの福音のようにできるのでしょうか。きれい事や理想を述べるこ

とならできることですが、実践は難しいでしょうと誰もが考えて当然だと思います。

イエスは言っています。「自分を迫害する者のために祈りなさい」と。この「祈れ」

に私たちへのメッセージが込められています。続けて祈るうちに、私たちの心に変化

が芽生えてきます。祈る時に私たちは、神中心の人間になり、私たちの姿勢を変えて

くださるのです。私たちの思いではなく、どうぞあなたのみ旨で私たちをそのような

人間に変えてくださいとの願いを聞き届けてくださり、どんな人との交わりも可能に

し、嫌いだったり苦手だったりした人をも等しく関わりをもてる人間にしてくださる

のです。 

 このことによって、わたしたちの心は無限に広がっていくことが可能です。御父の

うに、誰をも愛し、どんな時にでもくじけることなく、大いなる希望にあふれた人

に変えて下さるように願っていきたいものです。

 

 

 


 

 

年間第6主日(2017年2月12日)

   マタイによる福音書第5章17~37節

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    司式 近藤 光彦 神父 

 

 〔そのとき、イエスは弟子たちに言われた。〕

 「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止

るためではなく、完成するためである。はっきり言っておく。すべてのことが実し、

天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない。だから、こ

れらの最も小さな掟を一つでも破り、そうするようにと人に教える者は、天の国で最

も小さい者と呼ばれる。しかし、それを守り、そうするように教える者は、天の国で

大いなる者と呼ばれる。」

 「言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさって

いなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない。

 あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』

と命じられている。しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁

きを受ける。」

「兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の

地獄に投げ込まれる。だから、あなたが祭壇に供え物を献げようとし、兄弟が自分に

反感を持っているのをそこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に置き、まず言

って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい。あなたを訴える

人と一緒に道を行く場合、途中で早く和解しなさい。さもないと、その人はあなたを

裁判官に引き渡し、裁判官は下役に引き渡し、あなたは牢に投げ込まれるにちがいな

い。はっきり言っておく。最後の一クァドランスを返すまで、決してそこから出るこ

とはできない。」

「あなたがたも聞いているとおり、『姦淫するな』と命じられている。しかし、わ

しは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその

を犯したのである。」

「もし、右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。

 体の一部がなくなっても、全身が地獄に投げ込まれない方がましである。 もし、

右の手があなたをつまずかせるなら、切り取って捨ててしまいなさい。体の 一部

がなくなっても、全身が地獄に落ちない方がましである。『妻を離縁する者は、

縁状を渡せ』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。不法な結婚でも

いのに妻を離縁する者はだれでも、その女に姦通の罪を犯させることになる。離

された女を妻にする者も、姦通の罪を犯すことになる。」

「また、あなたがたも聞いているとおり、昔の人は、『偽りの誓いを立てるな。主

対して誓ったことは、必ず果たせ』と命じられている。しかし、わたしは言ってく。

いっさいちかいをたててはならない。」

「天にかけて誓ってはならない。そこは神の玉座である。地にかけて誓ってはならな

い。そこは神の足台である。エルサレムにかけて誓ってはならない。そこは大王の都

である。また、あなたの頭にかけて誓ってはならない。髪の毛一本すら、あなたは白

くも黒くもできないからである。」

「あなたがたは、『然り、然り』『否、否』と言いなさい。それ以上のことは、悪

者から出るのである。」

 

 

 


   

年間第5主日(2017年2月5日)

   マタイによる福音書第5章13~16節

 

 

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    司式 加藤 鐵男 神父  

 

 〔そのとき、イエスは弟子たちに言われた。〕「あなたがたは地の塩である。だが、

塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役に

も立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。あなたがたは世の

光である。山の上にある町は、隠れることができない。また、ともし火をともして

の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照ら

のである。そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あな

がたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」

 

 

 

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年間第5主日のミサ説教要旨

 

                        加藤 鐵男 神父  

 

 イエスは、語りかけます。弟子となった彼らは皆、無学な者たちであり、イエスの

もとに集まっていた群衆は「いろいろな病気や苦しみに悩む者」たちでした。その弟

子たちや人々に語りかけます、「あなたがたは世の光である」と。

 国や市町村、官庁、会社を問わず上層部だけでは、その組織は成り立ちません。そ

れを縁の下で支える様々な人々によって、保たれています。誉められもせず、それが

当たり前の事であるかように、時には評価もされずに黙々と働く人たちがいます。だ

からと言って、上に登り詰めて「目立ちたい」と思うわけでもなく、自分の果たすべ

き役割をきちんとこなす大勢の人たちがいます。

 そういう人たちに出合うと、こちら側も何か清々しい気分にさせられますし、その

生き方に憧れをもつこともあります。

 今日のマタイによる福音の「地の塩」の話は正にその事を語りかけてくれています。

塩は、漬け物、食材の保存、味付けに使われますが、使われてしまえば、溶けて形は

消えてしまいます。しかし、その役目をしっかりと果たしているにもかかわらず、こ

のたくわんは美味しいとか、この塩加減はちょうどいいとか言われますが、調理をし

た人が誉められることがあっても、塩に対する感謝の気持ちを述べてくれる人は誰も

いません。

 イエスは、このことを教えているのです。役目を終えたその時には誰にも見られる

ことなく、誉められることもない、しかしわたしはちゃんとあなたがたの事を見てい

るし覚えているよと。あなたがたは、その事に満足しなさいとイエスは言われるので

す。

 教会共同体においても同じ事です、役員たちだけで成り立つわけではなく、共同体

の一人ひとりが、それぞれの用意されたところで、その役割をしっかりと働いて下さ

るから前に進むことができているのです。 

 この意識をわたしたち一人ひとりが持ち続けて、与えられた場所で、与えられた役

割を果たして大輪の花を咲かすことができますように、力を合わせて歩いてまいりま

しょう。

 

  


   

年間第4主日(2017年1月29日)

   マタイによる福音書第5章1~12a節

 

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    司式 加藤 鐵男 神父 

 

  〔そのとき、〕イエスは群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たち

が近くに寄って来た。そこで、イエスは口を開き、教えられた。

 「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。

 悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。

 柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ。

 義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる。

 憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける。

 心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。

 平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。

 義のために迫害される人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。 

 わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴び

せられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大

きな報いがある。」

 

 

 

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年間第4主日のミサ説教要旨

 

                       加藤 鐵男 神父   

 

 わたしたちの人生には、いろいろなことがあります。決して平らな道ばかりではな

く、山坂が一度ならず二度、三度と繰り返されることもしばしばです。

 病気で入院されている方が、今朝も目が覚めた、今日も生きていると安堵するが、

になって目を閉じるときには、明日の朝は、目を覚ますことができるだろうか、と

不安の内に眠りにつくという話を聞いたことがありました。

 今日の集会祈願に、「世界に苦しみのない朝はありません。その苦しみの中にこそ、

あなたは力強く働かれます。」とありますが、わたしたちの人生の苦しみ、困難、試

練のときにこそ、神に守られ生かされているのです。

 今日のマタイによる福音の山上の垂訓は、「真福八端」とも呼ばれ、八つの幸いが

語られ、謙遜に生きることが求められています。

 最初の「心の貧しい人」とは、物が無意味であって、神がすべてであることを知っ

た人のことをさしています。決して貧困がよいということを言っているわけではあり

ません。このあとのそれぞれの幸いにしても、決しておのおのが幸いというわけでは

なく、それらを通して、その立場になって考えたときに、それぞれの気持ちが理解出

来るのではないか、したがって、その物事の奥に潜む真理を悟るものは幸いであると

いうことなのです。

 イエスは、これを弟子たちに繰り返し述べ、弟子たちもイエスの正式な教えとして

受けとめ、何度も暗唱して人々に、それを、伝えていきました。しかし、その制定過

は、一度に出来上がったものではなく、時間を掛けて行く中で制定されたものと思

れ、それを後になって要約したものが、この「真福八端」として今日まで伝わって

たのです。

 現代に生きるわたしたちも、このそれぞれの奥に隠されている真理をよく理解して、

一人一人謙遜に、相手の立場になって、悲しむ人、柔和な人、義に飢え渇く人、憐れ

み深い人、心の清い人、平和を実現する人、義のために迫害される人の事を、自ら想

像してみてその人になりきって、どのような心境なのかを探り当てた上で、それらの

幸いを自らの手で実現することを目指していきたいものです。 

 それには、まず、イエスの教えは何なのか、イエスの生き方はどうだったのかを、

わたしたち一人ひとりが、知ることが大切です。 

 

 


 

 

年間第3主日(2017年1月22日)

   マタイによる福音書第4章12~23節

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    司式 近藤 光彦 神父

 

 

 イエスは、ヨハネが捕らえられたと聞き、ガリラヤに退かれた。そして、ナザレを

離れ、ゼブルンとナフタリの地方にある湖畔の町カファルナウムに来て住まわれた。

それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。

 「ゼブルンの地とナフタリの地、湖沿いの道、ヨルダン川のかなたの地、異邦人

ガリラヤ、暗闇に住む民は大きな光を見、死の影の地に住む者に光が射し込んだ。」

そのときから、イエスは、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言って、宣べ伝え

められた。

   《イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、二人の兄弟、

  ペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレが、湖で網を打っているの

  を御覧になった。彼らは漁師だった。

   イエスは、「私について来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言わ

  れた。二人はすぐに網を捨てて従った。そこから進んで、別の二人の兄

  弟、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、父親のゼベダイと一緒に、

  舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、彼らをお呼びになっ

  た。この二人もすぐに、舟と父親とを残してイエスに従った。

   イエスはガリラヤ中を回って、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、

  また、民衆のありとあらゆる病気や患いをいやされた。》

 

 

 


   

年間第2主日(2017年1月15日)

   ヨハネによる福音書第1章29~34節

 

 

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    司式 加藤 鐵男 神父 

 

 

 

〔そのとき、〕ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世

の罪を取り除く神の子羊だ。『わたしの後から一人の人が来られる。その方はわたし

にまさる。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方の

ことである。わたしはこの方を知らなかった。しかし、この方がイスラエルに現れる

ために、わたしは、水で洗礼を授けに来た。」そしてヨハネは証しした。「わたしは、

〝霊〟が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た。わたしはこの方

を知らなかった。しかし、水で洗礼を授けるためにわたしをお遣わしになった方が、

『〝霊〟が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授

ける人である』とわたしに言われた。わたしはそれを見た。だから、この方こそ神の

子であると証ししたのである。」

 

 

 

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年間第2主日のミサ説教要旨

 

                       加藤 鐵男 神父 

  

 

 今日のヨハネによる福音1章29-34節は、イエスが公生活を始めた頃の出来事が読

まれます。洗礼者ヨハネが、待望の来るべき方についてあかしした翌日、イエスに出

会う場面です。

 ヨハネは言います、「見よ、世の罪を取り除く神の子羊だ」と。子羊は、人間の罪

の犠牲として捧げられた動物でした。「神の子羊」とは、人間イエスが、民の罪を贖

う為に動物ではなく、自ら十字架に付けられたことの象徴です。

 イエスの親戚であったヨハネですが、イエスが神の子にほかならないということを

突然に啓示を受けた。「霊が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見

た」、このことによってヨハネは、自分の役割が人々にキリストを指し示すことであ

ると悟ります。キリストこそすべてでした。ヨハネは、自分の為に何一つ要求するこ

となく、自分を遣わした方のみ旨を果たすことに専心するのです。

 現代に生きる私たちは、何かと自分の利益になるようにとすべてに対して苦心惨憺

していますが、自分のことばかりではなく、全ての人々の幸せを願うのが、キリスト

者としての務めであることを忘れてはいけません。御父と御子から発出される聖霊が

神殿と呼ばれている私たちの体にお住みになって、私たちは守られ、導かれ生きてい

ます。

 いつも、絶えず注がれる聖霊のシャワーに浸されている私たちです。感謝の気持ち

が、天まで届くような喜びの絶叫の声を皆で発したいと思います。 

 

 

 


 

主の公現(2017年1月8日)

   マタイによる福音書第2章1~12節

 

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    司式 近藤 光彦 神父

 

 イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、

占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、言った。「ユダヤ人の王としてお

生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たの

で、拝みに来たのです。」これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人

々も皆、同様であった。

 王は民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、メシアはどこに生まれることにな

っているのかと問いただした。彼らは言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者が

こう書いています。

『ユダの地、ベツレヘムよ、

 お前はユダの指導者たちの中で

 決していちばん小さいものではない。

 お前から指導者が現れ、

 わたしの民イスラエルの牧者となるからである。』」 

 そこで、ヘロデは占星術の学者たちをひそかに呼び寄せ、星の現れた時期を確かめ

た。そして、「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わ

たしも行って拝もう」と言ってベツレヘムへ送り出した。彼らが王の言葉を聞いて出

かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。学

者たちはその星を見て喜びにあふれた。家に入ってみると、幼子は母マリアと共にお

られた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物

として献げた。ところが、「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、

別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。

 

 


   

神の母聖マリア(2017年1月1日)

   ルカによる福音書第2章16~21節

 

 

 

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    司式 加藤 鐵男 神父 

 

 〔そのとき、羊飼いたちは〕急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝か

せてある乳飲み子を探し当てた。その光景を見て、〔彼らは、〕この幼子について天

使が話してくれたことを人々に知らせた。聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に

思った。しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた。

羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、

賛美しながら帰って行った。 

 八日たって割礼の日を迎えたとき、幼子はイエスと名付けられた。これは、胎内に

宿る前に天使から示された名である。

 

 

 

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神の母聖マリア」主の降誕八日目のミサ説教要旨

『マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた』

 

                       加藤 鐵男 神父 

 

 

 新年明けましておめでとうございます。今年もどうぞよろしくお願いいたします。

 今日は、主の降誕の祭日、神の母聖マリアの祭日(1月1日)との二つある日本の

カトリック教会の守るべき祝日の一つです。

 羊飼いは、規定を守れない生活を強いられているがゆえに、軽蔑されている立場に

ありました。その皆からは、相手にされていない羊飼いのところへ一番先に、救い主

の誕生がつげられたのです。

 神の子イエス・キリストは馬小屋の飼い葉桶に寝かされていました。ゆとりがある

家庭であれば、音楽隊を雇いその誕生を祝うところですが、そんな用意はされていま

せんでした。しかし、音楽隊の代わりに、天使に天の大軍が加わり、まるで合唱のよ

うに神を賛美して言いました。

「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。」

                             (ルカ2章13-14節)

 

 マリアは、これまでのことを思い巡らしていました。天使ガブリエルによる受胎告

知や占星術の学者たちがはるばる東方から星に導かれて、飼い葉桶に寝かされている

幼子を訪ねてきたことを。

 八日たって割礼を受けたとき、幼子はイエスと名付けられました。

 神の母聖マリアを敬うとともに、私たちの援助者、介助者と言われるその役割を果

たしてくださることに感謝しましょう。 

 全てを受け入れて、自分の果たすべき役割を担われたマリア様、救い主として来ら

れたにもかかわらず、貧しい庶民の生活の中で成長され、生活の困難さを体験され、

その中でのささやかなうれしさ、喜びを経験された救い主イエス・キリスト、神であ

ることの何の優越性をも主張されなかった神の子イエス・キリストの存在に感謝しま

しょう。

 

 

 


 

 

主の降誕 日中のミサ(2016年12月25日)

   ヨハネによる福音書第1章1~5、9~14節

 

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    司式 近藤 光彦 神父

 

 

 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と

共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何

一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で

輝いている。暗闇は光を理解しなかった。

 その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。言は世にあった。

世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。言は、自分の民のところへ来たが、

民は受け入れなかった。しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々に

は神の子となる資格を与えた。この人々は、血によってではなく、肉の欲によってで

はなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。

 

 言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それ

は父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。 

 

 


   

主の降誕 夜半のミサ(2016年12月24日)

   ルカによる福音書第2章1~14節

  

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    司式 加藤 鐵男 神父 

 

 

 そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。

これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である。

人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った。ヨセフもダビデの家に属し、

その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデ

の町へ上って行った。身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためで

ある。ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子

を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったか

らである。

 その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。すると、

主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。天使は言

った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデ

の町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。

あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。

これがあなたがたへのしるしである。」すると、突然、、この天使に天の大軍が加わ

り、神を賛美して言った。

 「いと高きところには栄光、神にあれ、 

  地には平和、御心に適う人にあれ。」

 

 

 

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待降節第4主日(2016年12月18日)

   マタイによる福音書第1章18~24節

 

 

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    司式 加藤 鐵男 神父

 

 イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約して

いたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。

夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそか

に縁を切ろうと決心した。このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。

「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によ

って宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この

子は自分の民を罪から救うからである。」このすべてのことが起こったのは、主が預

言者を通して言われていたことが実現するためであった。

  「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。

   その名はインマヌエルと呼ばれる。」

この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。ヨセフは眠りから覚める

と、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れた。 

 

 

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 待降節第4主日 ミサ説教要旨  

 

                       加藤 鐵男 神父 

 

 降誕祭まで一週間となりました。今日のマタイによる福音では、イエスの誕生の次

第が、ルカのマリアではなく、いいなずけのヨセフに告げられて次の通りになってい

ます。

 マリアと一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることを知ったヨセフは、こ

の受胎に神の大いなる力が働いていることを悟り、畏れを抱いて自ら身を引こうとし

ます。

 ところが、主の天使が夢に現れて、「マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのであ

る。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪

から救うからである」と告げられます。主が預言者を通して言われていたことが実現

するためであった。

 今日の第一朗読イザヤの預言7章14節に「乙女が身ごもって、男の子を産み、その

名をインマヌエルと呼ぶ」とあります。この「インマヌエル」とは、「神は我々と共

におられる」という意味である。

 ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じられたとおり、マリアを迎え入れた。

 

 先日10日に行われた共同回心式、昨日行われた子供たちへのゆるしの秘跡によって、

改心へと導かれたわたしたちは、神から罪をゆるされ身も心も聖なるものとされまし

た。神の子にふさわしいものとされたのです。

 巷では、クリスマスの美しい飾りや音楽に踊らされていますが、クリスマスが何の

ことか、全く理解できていない大勢の人がいます。単にケーキを食べ、飲み、さわい

で楽しむ年中行事の一つだくらいにしか感じていない人たちがいます。キリストを知

ったわたしたちは、それらの人々に、「救い主イエス・キリストが、この世に神から

派遣されたお祝い日である」ことを、しっかりと伝えていかなければなりません。 

 しかも、それを伝えるのはわたしたち各々一人だけでは無く、「神は我々と共にお

られる」という主である神の大きな愛に包まれている安心感の中で行うことができる

という恵まれた環境の中であることに感謝しなければなりません。降誕祭まで一週間 

です。

 

 


 

 

待降節第3主日(2016年12月11日)

   ヨハネによる福音書第11章2~11節

 

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    司式 近藤 光彦 神父

 

 

 

 〔そのとき、〕ヨハネは牢の中で、キリストのなさったことを聞いた。そこで、自

分の弟子たちを送って、尋ねさせた。「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、

ほかの方を待たなければなりませんか。」イエスはお答えになった。「行って、見聞

きしていることをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩

き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き

返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。わたしにつまずかない人は幸いである。」

 ヨハネの弟子たちが帰ると、イエスは群衆にヨハネについて話し始められた。「あ

なたがたは、何を見に荒れ野へ行ったのか。風にそよぐ葦か。では、何を見に行った

のか。しなやかな服を着た人か。しなやかな服を着た人なら王宮にいる。では、何を

見に行ったのか、預言者か。そうだ。言っておく。預言者以上のものである。

  『見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、

  あなたの前に道を準備させよう』 

と書いてあるのは、この人のことだ。はっきり言っておく。およそ女から生まれた者

のうち、洗礼者ヨハネより偉大な者は現れなかった。しかし、天の国で最も小さな者

でも、彼よりは偉大である。」

 

 

 


   

 

待降節第2主日(2016年12月4日)

   マタイによる福音書第3章1~12節

 

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    司式 加藤 鐵男 神父 

 

 そのころ、洗礼者ヨハネが現れて、ユダヤの荒れ野で宣べ伝え、「悔い改めよ。天

の国は近づいた」と言った。これは預言者イザヤによってこう言われている人である。

 「荒れ野で叫ぶ者の声がする。

 『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。』」

 ヨハネは、ラクダの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べ物としてい

た。そこで、エルサレムとユダヤ全土から、また、ヨルダン川沿いの地方一帯から、

人々がヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。

 

 ヨハネは、ファリサイ派やサドカイ派の人々が大勢、洗礼を受けに来たのを見て、

こう言った。「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、誰が教えたのか。悔い

改めにふさわしい実を結べ。『我々の父はアブラハムだ』などと思ってもみるな。言

っておくが、神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできに

なる。斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて

火に投げ込まれる。わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授け

ているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その

履物をお脱がせする値打もない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けに

なる。そして、手に箕をもって、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、

殻を消えることのない火で焼き払われる。」

 

 

 

 

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 待降節第2主日 ミサ説教要旨   「悔い改めよ、神の国は近づいた」

 

                       加藤 鐵男 神父

 

 毎年待降節第2、第3主日の福音では、洗礼者ヨハネが登場し、先駆者として来る

べき方について語っています。

 ユダヤ人たちは、絶えて久しく預言者の声が聞こえなくなっていたことを嘆き悲し

んでいました。そこに、洗礼者ヨハネの声が、荒れ野に響き渡りました。「悔い改め

よ、神の国は近づいた」と。イザヤの預言によって示されていた洗礼者ヨハネの出現

に、ヨルダン川沿いの地方一帯から人々が来て、罪を告白し、ヨルダン川に沈められ

洗礼を受けました。

 現代に生きるわたしたちもヨハネのこの時代と同じように「悔い改めよ」と呼び掛

けられているのではないでしょうか。時間に追われ、自分を振り返る余裕もないわた

したちが、他人のことを心配することができるのかと、毎日がストレスの中にあって、

仕事から解放されたときこそ、自分の好きなようにさせてくれとばかりに、するべき

事を忘れて過ごしているかもしれません。

 しかし、神様はわたしたちのことを片時も忘れることはありません。たえず気に掛

け、知らず知らずのうちに守り導いてくれています。

 日頃の自分を省みて、神から離れて生活していたことを悔い改め、心を完全に変え

ることによって、生活と行動を変える一歩を踏み出すことが、求められています。

 神は、完全にそして自由に、悔い改める者の罪を赦す。これがユダヤ教の中心的な

教義であり、ユダヤ人たちにとって神に帰る道は悔い改めることであった。

 悔い改めとは、悪に背を向けて、神の方へ向き直るという意味があり、悔い改めと

は、罪人が罪を放棄し、罪をその心から追放して再び罪を犯さないように、堅く決心

することです。

 エゼキエル書の33章11節で神は次のように言われます。

「主なる神は言われる、わたしは悪人の死を喜ばない。むしろ悪人が、その道を離れ

て生きるのを喜ぶ。あなたがたは心を翻せ、心を翻してその悪しき道を離れよ。イス

ラエルの家よ、あなたはどうして死んで良かろうか。」

 わたしたち罪人である人間にも神は、このように憐れみとたくさんの愛を注いで下

さいます。

 悔い改めは、罪から離れて神に帰ることであり、また、神がわれわれに期待される

生活をすることです。

金属が火によって精錬されるように、わたしたち人間も聖霊と火によって新たな神に

向かって生きる人間に変えられていきますよう願ってまいりましょう。