『わたしは復活でありいのちである』

主任司祭 場崎 洋 神父

 

 歴史的研究によるとイエスが死去した年月日は紀元30年4月7日であると言われてい

ます。イエスはエルサレムの郊外にあるゴルゴダという丘で十字架に掛けられて殺さ

れました。弟子たちはイエスがこんな死に方をするなんて考えてもいませんでした。

彼らは失望し、悲嘆に暮れました。あんなに素晴らしい奇跡を行い、力強いことばで

人々を魅了したイエスがこんな無残な死に方をするはずがないと思っていたからです。

彼らが抱いていたイエスの最後はこの世の権力者を屈服させ王座に君臨することでし

た。弟子たちは十字架にかけられたイエスを信じることが出来ませんでした。十字架

の死はイエスの敗北、自分たちが信じてきたものが崩壊した瞬間でした。弟子たちは

最後の最後までイエスの死の意味を知ることができませんでした。弟子たちはイエス

が語っていた不可思議なみことばにも理解不足でした。イエスの遺体がおさめられて

いた墓は空になっていましたし、いったい何が起きてしまったのか分からなかったの

です。彼らはただ家で隠れて怯えていたのです。

 「その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たち

のいる家の戸に鍵をかけていた。そこえ、イエスが来て真ん中に立ち、『あなたがた

に平和があるように』。そう言ってから・・・・・、彼らに息を吹きかけて『聖霊を

受けなさい・・・・だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの

罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る』と言われた」。

(ヨハネ福音20・19、22~23)

 イエスが復活したということは何事でしょう。どうして死んだ者が復活したのでし

ょうか。復活したイエスの姿をどのように表現したらいいのでしょうか。コンピュー

ター・グラフィックで巧妙に映像をつくったとしても、文学的に神学的に哲学的に、

芸術的に表現しても、表現しきれるものではありません。イエスの復活は私たちが認

識している時間、空間を越えます。御父は御子イエスの死と復活を通して罪を滅ぼし、

慈しみと憐れみを注がれました。主は死んだ神ではなく生きている神です。この世の

闇、罪の束縛からわたしたちを開放し、福音の光へ招き入れてくださるのです。目で

見える信仰は信仰ではありません。見えない栄光を信じる恵みこそ信仰の恵みなので

す。

 この7か月間、皆様のもとでご奉仕させていただきました。本当に支えられました。

ありがとうございます。感謝と賛美のうちに皆様のためにお祈り申し上げます。

 どうぞ、新しい赴任地へ派遣される韓神父様と、新しい主任司祭・加藤神父様のご

健康とご発展のために聖テレジアと聖母の取次ぎを願ってお祈りします。

 

   山鼻教会機関誌「おとずれ」’16/3月号より

 

 


 

四旬節黙想会「神の恵みに生かされて」 2016年3月6日

 

マリア様の写真をクリックすると、場崎神父様の黙想会の音声を聞くことができます。

          ここをクリックしてください、黙想会の資料にジャンプします。

 


 

ルカ神父の四旬節の黙想会 2016年2月14日(日)

主任司祭 場崎 洋 神父

 

 今日はルカ・ヴォナビコ神父様による四旬節の黙想会がありました。

テーマは「神さまの恵みに生かされて」です。子供たちの中に働いている神様の恵み

を楽しくお話ししてくださいました。以下は一信徒が心に残ったルカ神父様のお話し

を並べてみました。

 

 お母さんが新聞の投稿で書いていました。小学校の息子の宿題を見ていたときです。

文字のおけいこです。息子は紙に「春はきせき」と書きました。お母さんはびっくり

しました。「春はきせき」。自分の息子は詩人ではないかと思いました。何とすばら

しいことを書くのでしょうか。感心しながらずっと見ていましたら、息子は消しゴム

で下のほうの文字を消して書き直しました。「春はきせつ」になりました。これには

がっかりしました。最初は「きせき」だったのに、訂正して「きせつ」になったから

です。子供の感性を大切にしていきたいものです。「春はきせき」でいいのです。で

も大人は「春はきせつ」と文字通りの教育をしてしまうものなのです。もっと「春が

きせき」になるような発想を育んでいきたいです。

 またこれも新聞の投稿です。12歳の男の子が書いています。「どうして僕は生きて

いるのだろうか。何のために生きているのだろうか・・・・」。すばらしいことです。

スウェーデンの富豪が書いていました。「わたしは何もかも恵まれていました。地位

も冨も、財産も手中にすることができました。しかし、人間は必ず死ぬということで

す。信仰がなければ生きる意味は消えうせてしまいます。・・」。この人は自分の人

生を問い続けながら自ら命を絶ってしまいました。きっと救いを求めていたに違いあ

りません。

 次はある女の子の投稿です。「わたしは毎日 ほめほめ日記を書いています。まず

今日のよかったところを書きます。自分で自分のよかったところを書くほめほめ日記

です。こんなことをしていると本当に幸せになれます。そして今度は人のいいところ

をほめる、ほめほめ日記を書きたいです」。

 幼稚園に通っている娘のことをお父さんが新聞に投稿しています。娘は食事の前と

終わりにきちんとお祈りをします。親はそれに合せてお祈りをします。とても感心し

ます。ある夜、娘の寝室から声が聞こえてきました。茶の間のドアからその様子を両

親が観ていたのです。すると娘は「寝る前の祈り」を忘れていたようで、思い起こし

てベットの上に正座して祈ったのです。「今日は一日、いたずらばかりしてしまいま

した。どうか、かみさま、この罪びとをおゆるしください」。これには父親は驚き、

新聞に投稿したのです。子供は預言者です。神の言葉をもった預言者です。大人の心

を神様の心に向かわせる力があります。・・・・

 北イタリアの巡礼地に参加していたときに、ルカという少年が地滑りにあって重傷

を負ってしまいました。 9か月の間、意識のない状態が続きました。お母さんはいつ

も教会に通って涙ながらに祈りを捧げました。ある日、少年の意識がかすかに戻って

きたのです。お母さんは思わず息子に尋ねました。「あなたは今までどこに行ってい

たの?」。すると少年は筆談か、文字を打つソフトで「僕は天国に行ってきました」

と答えました。少年の物語は続きます。僕は天国で聖人たちや天使たちに会いました。

とても素晴らしいところだったので、ずっとそこにいたいと思いました。でも、戻り

なさいと言われて戻ってきました。母親が意識のない自分の体のそばで祈っていたこ

と、同じように寄り添う人々の姿もすべて見えました。ルカは天国について確信をも

って言うのです。「天国はあります。永遠の生命はあります」と。

 

 

 

 

『子どもの心』

主任司祭 場崎 洋 神父

 

 窓から雪が降り積もっている様子を見た男の子がお母さんに言いました。「おかあ

さん、この雪、お砂糖だったらいいね」子どもにとって砂糖はこのうえもない食べ物

です。子どもは砂糖で幸せになれるのです。(昭和35年頃のはなし)

 

 雪がしんしんと降ってくると、子どもは空を見上げました。雪がどんどん降りてき

ますから、子どもは喜びながらこう言ったのです。「すごい、すごい、ぼく、どんど

ん天国にのぼっていくよ…ほんとうに」子どもにとって雪は降ってくるものではなく、

自分がどんどん天に昇っていくようなのです。(昭和40年頃)

 

 はじめて蒸気機関車に乗った男の子が窓を見て叫びました。「お母さん、見て、見

て!電信柱がとんでいくってば・・・」子どもは機関車の速さを言っているのではあり

ません。電信柱が跳んでいくのに驚いているのです。(昭和40年頃)

 

 マリア院のシスターが横浜にいる弟に会いに行ったときの出来事です。青森発の上

野行きの寝台車に乗ったときのことです。女の子の声が聞こえてきました。「てんに

ましますわれらのちちよ・・・」寝る前の祈りだったのでしょうか。シスターはこの

光景に感動しました。天使が祈っているように思えたからです。女の子のところに近

づいて聞いてみました。すると信者の子ではなかったのですが、厚別区の「カトリッ

ク虹の森幼稚園」の卒園児だったのです。幼稚園のときに教えてもらったお祈りを大

切にしているとのことでした。お母さんがそう教えてくれました。(平成10年頃)

 

 羽田空港で千歳空港行きのジャンボ・ジェットの機内にいました。3歳くらいの男

の子が窓を覗いていました。するとこう言いました。「ママ、ママ、見て。あそこに

ジャンボ・ジェットが見えるよ。ねえママ、あのジャンボ・ジェットに乗りたい・・」

ママが息子に自分たちがジャンボに乗っていることを説明したのですが理解できませ

ん。とにかく子どもは、あのジャンボに乗ってみたいのです。(平成3年頃)

 

 ある親子が銭湯に行きました。幼稚園の息子が入れ墨のおじさんのところでこう言

いました。「おじちゃん、この汚れ(入れ墨)を洗ってあげるね・・・」父親はハラ

ハラドキドキ。息子を引き戻してすぐにあがったそうです。何も起こりませんでした。

(昭和36年頃)

 

 このように子どもは純真無垢です。素晴らしい感性をもっている預言者です。大人

は理屈と、この世の体裁で生きています。イエスは「幼子のようになりなさい」と、

言われました。四旬節の間、わたしたち大人が忘れているものを見つけていきたいで

す。それはイエスさまの復活のいのちに似ているかもしれません。難しい哲学や神学

のことばで復活を説明するより、子どもの感性が栄光に輝く心理を解き明かしてくれ

るような気がします。

    山鼻教会機関誌「おとずれ」’16/3月号より

 

 


 

『四旬節を迎えるにあたって』

                            主任司祭 場﨑 洋 神父

                         

 今年の四旬節は2月10日の灰の水曜日から始まります。四旬節第一主日(2月14日)

の福音に心をとめてみましょう。はイエスが荒野で断食し誘惑に遭われる箇所です。

 ・・・・ 誘惑する者が来て、イエスに言った「神の子なら、これらの石がパンにな

るように命じたらどうだ。」イエスはお答えになった。「『人はパンだけで生きるも

のではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある。」・・・・・

(マタイ4章1~4節)

 この世に肉体をもっている限り、あるいは精神的側面を持っている限り人間の魂は

誘惑にさらされます。無心になって神に立ち返ることは頭で分かっていても、体と精

神は究極的な思いと正反対のところへ引きずり込まれます。誘惑するものは魅力ある

言葉、「神の子なら」とささやきます。言い換えれば、「もし、あなたが神の子なら」

「もし、キリスト信者なら」「もし、立派に信仰を生きているなら」・・・。人間の

人生は英語で「Life」と書きますが、この言葉の真ん中に仮定の「if」があり

ます。人生には「if」が頻繁に登場しているのです。人間は思い通りにいかなかっ

たとき、過去に対して後悔します。「もし、あのとき~にしていれば・・・だったろ

うに」。あるいは想定していない流れに遭遇して驚きを隠せず、いま無事であったと

いう感謝を体験することもあります。あるいは「if」=「もし、わたしが誠実に生

きたならば、きっと神はわたしにご褒美をくださるに違いない」と神を試そうとしま

す。この誘惑は頻繁に起こります。社会的価値観で見届けると、実現しなかった暁に

は神を呪ってしまうことがよくあります。わたしたちは神と「取引き」をしようとい

う誘惑の中にもいます。人生は「因果応報の法則」(善い人は報われて、悪い人は報

われないこと)であるということをほとんどの人は信じています。しかい、シナリオ

通りに行く人生というものはありません。それよりも、神のはからい、神のみ摂理を

思い起こすことが大切です。

  山鼻教会機関誌「おとずれ」’16/2月号より

 

 


 

『新しい歌を主にうたえ』

 

                                                                                   主任司祭 場崎 洋 神父

 

 皆様、主の降誕と新年を心からお喜び申し上げます。皆様のうえに神様の祝福が豊

かにありますようにお祈り申し上げます。

 年のはじめに典礼聖歌3番(詩編96章1~10節)を口ずさみたくなります。

 ♪ 新しい歌を主にうたえ、新しい歌を主にうたえ(答唱)

 1.新しい歌をうたおう。さあ、み名を祝し。

   日に日をついで、主の救いを告げよ。

 2.ひとびとに主の栄と、そのみわざを語ろう。

   主は偉大な神、たたえ敬え。・・・・♪

 わたしたちは新しい年を迎えますが、どうしても時間が経過してしまうと新鮮さは

消えうせてしまいます。わたしたちはいつも習慣の奴隷になってしまうからです。そ

の殻を破る力は神からいただけることを信じなければなりません。主の力を借りずに

は何一つできないわたしたちに自分の弱さに気づくはずです。その気になれば、人は

死ぬまで再出発することができます。回心とは、自分中心の生活から神中心の生活に

移ること、まさに古い習慣から生まれ変わることです。自分のことだけを考え、自分

さえよければすべて良しと考えるなら、わたしたちの人生は失敗してしまいます。わ

たしたちは、多くの人々に支えられて生きています。死ぬ時まで、だれかの役に立つ

人生を送りたいと願うばかりです。

 信仰をもっていても、人の批判でぐらつくようでは、人間として「道の完成」は程

遠いものになります。主とわたしたちがしっかりと結びついているなら、むしろ批判

は励ましとなります。

 病気になったといっても、決して悲観したり、落胆したりする必要はありません。

まず心を静めて主のみ前で祈りましょう。病気を癒すのは医者でも薬でもありません。

それはあなたの体に備わっている自然の治療力で、最終的には主が癒されるのです。

焦るところに解決はありません。静かにすべてを主にゆだねることから始めましょう。

素直に自分を受け留めることによって、自分の体に自分の魂を据えましょう。そうす

ることによってわたしたちは本当の平安を得ることができるでしょう。(上記はバレ

ンタイン・デ・スーザ著「そよ風のように生きる」から引用しました)。そして絶え

ずパウロの言葉をもって祈り続けたいです。

 「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。あなたがたの広い心

がすべての人に知られるようになさい。主はすぐ近くにおられます。どんなことでも、

思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めてい

るものを神に打ち明けなさい」(フィリピ手紙4章4~6節)

 

  山鼻教会機関誌「おとずれ」’16/1月号より

 

 


 

『いつくしみの特別聖年』

 

     主任司祭 場崎 洋 神父

 

11月13日の夜、フランス・パリで「悪夢」が襲いました。市内中心地で爆発や乱射が

相次ぎ129名が犠牲となり、重体を含む負傷者は300人にもなりました(11月16日現

在)。オランド大統領は非常事態を宣言し、「イスラム国」の犯行と断定し、テロに

屈服せず戦い続けるとしました。地方メディアは戦後最悪のテロだと伝えています。

同組織によるテロの脅威が世界に拡散している事態を鮮明にした出来事です。各国の

首脳はテロへの戦いに不退転の決意で挑むことを強調しました。イスラム国はフラン

スがシリアで行った同組織に対しての攻撃の報復だとして声明を送っています。

 人類は「歯には歯を、目には目を」という名目で戦争を繰り返して来ました。人間

は復讐と言う憎悪に満ちた世界に引きずり込まれようとしています。憎しみと戦争は

負のスパイラルです。しかし、人間には神の似姿として創造された寛容な心と憐れみ

深い愛を持ち合わせています。

 わたしたちはこの悪夢の出来事を点として捉えてはなりません。ヨーロッパが中東、

アフリカを植民地化した時代まで遡らなければなりません。歴史を俯瞰しながら尚い

っそう和解と平和を願いながら祈り続けなければなりません。

 憎しみのあるところに愛を、争いのあるところに平和を、分裂のあるところに一致

を与えてくださいますように、いつくしみ深い父に向って祈ります。

 教皇フランシスコは恵みの年として「御父のように、いつくしみ深い者となりなさ

い」( ルカ6・36 ) をモットーに、2015年12月8日の「無原罪の聖母の祭日」から

2016年11月20日の「王であるキリストの祭日」までの間を「いつくしみの特別聖年」

として定めました。この聖年を通して、わたしたちはより一層、神のいつくしみを希

望し、信じ、隣人愛に燃えていけますように、聖母の取次ぎを願って祈りを捧げたい

です。

  山鼻教会機関誌「おとずれ」’16/12月号より

 

 


 

グローバルの中で

                                主任司祭 場﨑 洋 神父

 

 9月2日の未明、トルコからギリシャに向かうシリア難民のボートが転覆し、12名

が溺死しました。定員を超えたボートは海に沈んで行ったのです。アブダラは妻と二

人の男の子を両腕に抱きあげましたが力尽きてしまいました。二人の息子と妻は溺死

しました。その後、末の息子3歳のアイランちゃんの遺体が浜辺に打ち上げられたの

です。そのときに撮られた写真が世界中に飛び回って、人々がこの画像を見て衝撃を

受けました。今世界は戦争で国を追われ、ボートで脱出した悲しい家族の物語を心に

刻まなくてはならないでしょう。写真を撮ったトルコ人カメラマンは、アイランちゃ

んの遺体を見て『血が凍りついた。私にできる唯一のことは、彼の叫びを世界に届け

ることだけだ」と語りました。わたしたちはアイランちゃんの悲劇から、今もなお、

シリアで戦争に怯え、泣き叫ぶ子供たちの声が聞こえてくるのを感じます。主よ、子

供たちに平安を与えてください。すべての人たちが主の道具となって平和のために働

くようにしてください。内戦でやむなく故郷を離れたシリアの人たちは400万(トル

コに190万、レバノンに120万、ヨルダンに60万)。さらに国内にとどまっている難

民は760万とされています。難民避難民を合わせると1,100万人にもなります。内戦

勃発前のシリア人口が2,200万人でありましたから国家の半分が家を失ったことにな

ります。9月初旬、ヨーロッパに流れたのがトルコに逃げていた難民でした。世界的

シンクタンク・経済平和研究所が毎年発表している「世界平和度・指数」によると最

下位の国は内戦が続くシリアで2年連続でした。

 世界がグローバルしています。戦争から逃れるため、アフガニスタン、スーダン、

シリアから多くの難民が安住の地を求めています。移動中に亡くなっていく難民も少

なくはありません。私たちに物語があるように、彼らにも物語があります。神様から

賜った同じ命でありながら、彼らは生き延びるために数千キロから1万キロの旅をし

ているのです。わたしたちに何ができるのでしょうか。今日もわたしたちは問われて

います。

  山鼻教会機関誌「おとずれ」’15/11月号より