『至福のとき』

 

   主任司祭 加藤鐵男神父

 

 十一月初め久しぶりに、「えべつ楽友協会」主催のコンサートに行ってきました。

若手の中でも注目されている成田達輝ヴァイオリン・リサイタルでピアノ伴奏は、山

鼻教会の信徒である新堀聡子さんでした。「天は二物を与えず」と言いますが、二人

とも美形でありながらもその素晴らしい演奏に、神さまも時には手をゆるめることも

あるのだなと思わせてくれました。

 バッハのパルティタからの一曲に始まり、ベートーヴェンの「クロイツェル」と進

み、休息を挟んでドヴォルザークのソナチネ、ブラームスのハンガリー舞曲、最後は

サラサーテのツィゴイネルワイゼンとあっと言う間の二時間を楽しんできました。最

後の演奏は、クラシックのコンサートでは珍しい、客席まで降りて来て演奏するとい

うおまけ付きでした。

 プロの演奏家は、仕事がオフの時にも、毎日数時間の練習を欠かさないと聞きまし

たが、この演奏会を聞いて、日々の精進のたまものなのだなと改めて感じさせてくれ

ました。つま先、かかとまでの全身を使っての演奏は、心を込めて作曲者への敬意を

表し、聴衆をその世界に誘い、感動を与える素晴らしいものでした。

 ヴァイオリニストとピアノ伴奏との連携もベストマッチで、挨拶の中で「わたした

ちはユニットを組んでいるわけではありません」と冗談交じりに言っておられました

が、息の合ったものでした。演奏の途中で弓毛が何本も切れる程の情熱の込められた

演奏会は、二度のアンコールが起こる程の素晴らしい「至福のとき」を聞く人々にも

たらしてくれたのでした。

 さて、キリスト者のわたしたちの「至福のとき」とは、どんな時でしょうか。イエ

ス・キリストが辿った道を歩くかのように、わたしたちの日々の生活は、小さな喜び、

幸せにあずかり、時には悲しみ、苦しみ、試練に陥ることもあります。

 しかし、どんな時もわたしたちは、神に見守られ、助けられ、苦しみを乗り越えて、

希望の彼方への道を歩むように導かれます。無表情だったわたしたちの顔にやがて、

小さな笑みが浮かぶように変えられていきます。これが、「至福のとき」でなければ

何でしょうか。

 人は、誰しも日々の暮らしが金銭的に困らず、家族に恵まれ、笑顔の絶えない家庭

に憧れます。病気にもならず、健康で他の人の世話にならずに天に召されるまで生き

続けたいと願います。ほんの小さな「至福のとき」が、わたしたちキリスト者にとっ

ての最大の願いなのです。 

  山鼻教会機関誌「おとずれ」’16/12月号より

 


 

『二十四番目のマリア様』

 

   主任司祭 加藤鐵男神父

 

 今月の初めに、ある街の方からマリア像を戴いてきました。その家に住まわれてい

たお母様が帰天され、しばらく空き家になっていて、住む人もなく壊すことになった

と言います。その家に、木内藤三郎神父が造ったルルドの洞窟を模し、上部にキリス

ト磔刑像がつけられ、マリアとベルナデッタの像が安置されている立派な祭壇があり

ました。その家を継いだ方が、信徒ではなかったことと古い家と共に記憶にだけ留め

ておこうと思われたのではないかと思いますが、家と共に処分されることになってい

たそうです。親戚の信徒の方が、それを聞いてもったいないと想いわたしの所に電話

をくださったというわけです。わたしは話を聞いて、すぐに私にくださいとお願いし

ました。以前、主任だった江別教会は、木内神父が建設に携わり、神父様がお作りに

なった聖堂正面のキリストの磔刑像と一メートル二十センチはあるマリア像を、見て

いたので、是非欲しいと思いました。

 ある長老の神父様から伺った話によれば、その方が木内神父の下で助任をしていた

ときに、祈りとか聖書の話があるときには、「頼む」と言ってそれを助任の神父にま

かせて、自分はよく彫刻をしていたそうです。マリア像は、全部で百体ほどつくられ

たそうで、各々に番号を付けていたと知りました。私が戴いたマリア像の台座の裏

見ますと二十四とありました。比較的初期に造られた作品だったようです。

 木内神父が創設された「雪の聖母園」は、信徒の方々の寄付を主な財源として創設

されました。その時に、この街のお二人が多額の寄付をしてくださったので、そのお

礼にこの町の二軒のお家に同じものを作って贈ったそうです。ですから、この祭壇と

像には、木内藤三郎神父の「雪の聖母園」への想いがたくさん詰め込められたものな

のです。その想いが込められて作られたものが、五十五年の時を経て、私の所へ届い

たことになります。札幌教区の先輩として、後輩である私に司祭としてキリストに仕

えることは、どのような事なのかを、この祭壇とマリア像を通して諭してくださった

のではないかと思います。司祭職の何たるかを、忘れるなとの教訓ではないかと肝に

銘じました。

 今回のできごとを振り返ったときに、「人にへつらおうとしてうわべだけで仕えず、

主を畏れつつ、真心を込めて従いなさい。何をするにも、人に対してではなく、主に

対してするように、心から行いなさい。」(コロサイ3:22~23)との聖書のことば

を思いだしました。心に留め前を向いて歩いて行きたいものです。

 

  山鼻教会機関誌「おとずれ」’16/11月号より

 


 

『パラリンピックに想うこと』

   

 主任司祭 加藤 鐵男 神父

 

 八月のオリンピックに続いて、いま、ブラジルでは障害を持つ方々のパラリンピッ

クが開催されています。様々な障害を抱えながら各種の競技に挑む姿をテレビの映像

で見せられると、人間には体の一部を失っても、それを、補おうとする潜在能力が備

わっていることを垣間見せられて、驚きを隠せません。生まれつき右肘から無い人、

事故で片足、片手を失った人、目の見えない人などが、単独やチームで義足、義手を

装着、或いは車椅子に乗って真剣に闘う姿は、目頭が熱くなるほどに感動します。そ

して、メダルを獲得した喜びに浸る、その笑顔には大いに拍手を送らずにはいられま

せん。

 さて、わたしたちは自分が、健常者であることを神に感謝します。生まれてこの方

事故にも遭わず、五体満足で暮らしたこられたことを大いに喜びます。しかし、人間

は一年一年年を重ね、まだまだ、若いと思っていた自分が、ある日突然自分がこんな

に年を取ったのかということに気付いて愕然とします。自分の足は、健脚だと自負し

どこまでも歩いて行けるように錯覚していたのに、歩くことが徐々に困難になってい

ることに気付きます。片足を上げて立ったまま靴下が履けたのに、今はふらふらして

椅子に座らなければ、それが出来ないことに寂しさを覚えます。背中が、痒いとき、

かっては自分の手であらゆる方向から指が届いたのに、今は「孫の手」を使用しなけ

れば容易にできないことに歯がゆさを覚えます。人の名前が出てこず、「あれ、あの

人」で間に合わせることにも慣れて、いつの間にかそれが常態化しています。今朝、

薬を飲んだかどうかも怪しくなったりします。

 これらのことを、未然に防ぐことに神経を一生懸命注ぐ自分を思い出し、笑みを浮

かべる時があります。そんな自分でも、若い時のように何事もスムーズにできなくと

も、生きていかなければなりません。どんな状態になっても不要な人間ではないので

す。年を経ることによって積み重ねてきた知恵は、若い人に取っては大きな遺産にな

ります。将来に不安を抱えながら生きる若者に、「大丈夫」と大きく構えて、その不

安を払拭するのが年老いた者の務めです。身体の自由はおぼつかなくなっても、心は、

まだまだ、自由闊達で衰えを知りません。ますます、磨きをかけて人々の奉仕に邁進

しなければなりません。それが、キリスト者としてのあるべき姿です。希望をもって

生きて行きましょう。私たちの行うべき役目が、天に召されるまであることを確信し

て。 

 

  山鼻教会機関誌「おとずれ」’16/10月号より

 


 

『奉仕とは』

 

 主任司祭 加藤 鐵男 神父

 

 私が居住している山鼻教会では、毎週月曜日から金曜日までの夕方6時位から8時

半近くまで、主に矯正グループの集会のために会議室を貸し出しています。献金も頂

戴しています。それらのグループが、集会を終えて教会を出ると戸締りをして、私の

その日の務めは終了となります。彼らが教会を出るときには、8割方のグループがイ

ンターホンを通して「終わりました。有りがとうございました。」とお礼を言って帰

っていきます。その時に私も「ご苦労様でした。お休みなさい」と声がけして、彼ら

の労をねぎらうようにしています。しかし、時には疲れで眠くなることもあり、部屋

の椅子でいつの間にかウトウトしていることも度々あります。眠たいときには、ベッ

トに横になって朝まで眠れたらどんなにか気持ちいいだろうなと思いつつも、戸締り

を考えるとそれも出来ません。つい椅子で眠りに落ちていてインターホンで起こされ

ると「ご苦労様でした。お休みなさい」といういつもの声がけも心がこもっていない

なと自分も感じ、申し訳なかったなと反省したりもします。

 イエスは、どんなに疲れていても人々のためにご自身をお献げしました。群衆が飼

い主のいない羊のように弱りはて、打ちひしがれているのを見て深く憐れまれた(マ

タイ9:36)とあります。

 また、最後の時が近づいて弟子たちとゲッセマネに行き、ペテロ、ヤコブ、ヨハネ

の3人を伴って祈りに行かれた。イエスひとりが祈っている間、「ここを離れず、目

を覚ましていなさい」と言い残し、祈り終えて帰ってくると弟子たちが眠って居たの

で、ペテロに「眠っているのか。わずか一時も目を覚ましていられなかったのか。誘

惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い」(マル

コ14:32~39)と人間の弱さを深く憐れんでおられます。

 キリスト者は、様々な役務の中で奉仕職の務めをも果たすよう求められています。

奉仕にも大きなことから小さなものまでいろいろあります。イエスの教えに倣ってど

んなことにも忠実に果たさねばなりません。小さなことに忠実な者は大きなことにも

忠実であると言われます。このことを忘れがちになる私ですが、教会を利用する人た

ちに、いつも心から真に「ご苦労様でした」と言える者になりたいと願っています。 

 

  山鼻教会機関誌「おとずれ」’16/9月号より

 


 

                            『知らないことの損』

                              

                                                                            主任司祭 加藤 鐵男 神父

 

 若い頃にはウザイほどあった髪の毛が、二十年ほど前から頭皮がむき出しの状態

なってしまい、それを何とか隠そうと奮闘努力していました。ある日、理容店に行

たとき、店主が、かえって目立つのですよと諭され合点がいった私は、それなら一

のこと坊主頭にした方がよいだろうとその後は坊主頭で通しています。このヘアース

タイルなら理容店に行く必要もないと電気バリカンを購入して鏡を見ながら自分で月

に一度位の頻度で坊主刈りをしています。

 先日六年間働いてくれたバリカンが帰天を迎えました。電気店に買いに行ったとこ

ろ、チェーン店のオープン記念で大変安くなっていました。予定額の半値だったので

す。その時同じ売り場に、「鼻毛・耳毛・眉毛トリマー」があるのに気がつきました。

以前鼻毛だけの安物を買ったところ、全然役にたたず捨ててしまったことを思い出し、

その品物を見ますと電気髭そりのような刃が見えていてこれならば、役に立ちそうだ

とバリカンが安く手に入ったのでついでに購入してきました。早速使ってみたところ、

スムーズに鼻毛がそれて大変気に入りました。以前からこのような品物が多分販売し

ていたのでしょうが、私は気がつかなかっただけなのでしょう。いつもハサミを鼻に

入れて切っていたので、もっと早く知っていたならあんな労苦をしなくてもよかった

のと残念に思いました。 

 さて、カトリック信者もそうではないでしょうか。思い悩み、どうして私だけがこ

んな不幸な目に合わなければならないのかと悶々と暮らしていたとき、イエスに出会

って救われたと安堵し嬉しかったとき、もっと早くにイエスに出会っていればあんな

に悩まなくてもよかったはずだったのにと思ったのではないでしょうか。自分の周り

にそのような人がいたとしたなら、教えずにはいられないはずです。自分の不幸な経

験を他の人がせずに済むなら、こんな嬉しいことはありません。その為には、自分の

所にくれば導けますという雰囲気を普段から醸し出していなければなりません。あの

人なら自分の悩みを聞いてくれそうだという信号を出していなければなりません。そ

の役割をいつもイエスは、になってくださっているのです。私たちができない分を補

って下さっています。数ある中の弟子の一人として、私たちもその役割のほんの少し

でも果たすことが出来ればこんな嬉しいことはありません。イエスがそうであったよ

うに、私たちも少しでも他の人に希望を与えることができるなら私たちの人生は、も

っともっと豊かになっていくのではないでしょうか。 

 

  山鼻教会機関誌「おとずれ」’16/8月号より

 


 

『キリスト者の報酬』

 

  主任司祭 加藤 鐵男 神父

 

 世の中で働き生計を立てている人たちは、自分の収入が今よりも増えて、より余裕

のある生活を営むことができるようにと誰しもが望んでいます。その為にも自己研鑚

に先行投資をしてまで励み、より有利な立場を獲得しようと務めています。それは、

家族の為であり、自分の将来の為であり、社会の為でもあります。その願う報いは、

土地、家屋、お金、その他の財産です。

 キリスト者と呼ばれる人たちの信仰の報酬とは何でしょうか。イエスが、私たちに

教えてくれたことを実践したことに対しての報酬は受け取ることができるのでしよう

か。「ただで受けたのだから、ただで与えなさい」とイエスは言います。でも、「働

たものが、報酬を受けるのは当然だ」とも言います。

 その報酬は、黄金や土地家屋などの物質的なものではなさそうです。精神的なも

をイエスは、私たちに与えようとしています。

 イエスが、私たちに行うようにと勧めたことは、小さくされた者、弱くされた者に

対する憐れみ、愛を注ぐようにとのことでした。「人にしてもらいたいと思うことは

何でも、あなたがたも人にしなさい。」(マタイ7:12)と山上の説教と言われる箇

で述べています。また、「天に富を積みなさい。~あなたの富のあるところに、あ

たの心もあるのだ。」(マタイ6:20)とも言われます。人に優しく、親切にと言

うのは宗教ばかりではありません。道徳や、倫理の上でも述べられていることです。

 では、それとイエスが、言われるのとは何が違うのでしょうか。暇があるからとか、

ついでがあるから行えというのではありません。助けや支援を必要としている人がい

るなら、わざわざ時間を作り自分の何かを犠牲にしてまでも行えとイエスは言うので

す。

 現代に生きるわたしたちは、まるで時間に追われて生きているように感じる時があ

ります。『さようなら、ごめんね、時間がないので、またくるね、待てないの、時間

が無いから』(『祈りの友』の「主よ、時間はあります」より)と、私たちは、こち

の都合で何か良いことをしようとする傾向にあります。じっくり相手の話を聞こう

しません。聞いてあげるだけで、相手の悩みが軽減されることもあり得ます。

 私たちにとって大事なことそれは、イエスのように如何に自分を犠牲にすることが

できるのか、その為に如何に自分をお献げすることができるのか、なのです。

 

 山鼻教会機関誌「おとずれ」’16/7月号より

 


 

『仕えるものになりなさい』

    主任司祭 加藤 鐵男 神父

 

 新緑が美しい季節になりました。芽生えたばかりの木々の間を森林浴で歩くことは、

何と気持ちの良いことでしよう。この頃になると山歩きをしたいという欲望が、私の

心をもたげて、じっとしてはいられなくなります。5月の連休に早速訓練を開始しま

した。山鼻教会からは、藻岩山の登山口まで車で5分あれば到着します。こんな恵ま

れたところはありません。駐車場の空いている時間を見計らって、午後3時半ころ出

かけてみました。数台分の空きがあって楽に駐車できました。今年初めての登山です。

若い頃のように、無茶は出来ませんので、2本のストックを手にもって登山開始です。

風邪ぎみもあったと思いますが、登り初めてすぐに、息はゼーゼーの状態でした。昨

年の秋から始めていたスクワットの効果があるようで、息があがっているのに、足は

結構いけるように感じるのです。とうとう一度も休まずに山頂のレストハウスにつく

ことが出来ました。予想に反して、57分で着きました。若い頃に比べると7、8分は

遅いタイムでしたが、これで、今年も山登りが出来そうだと言う自信はつきました。

 さて、イエスは、わたしたちに「すべての人に仕えるものになりなさい」(マルコ9

:35)と言われます。すべての人とは、あらゆる条件なしの文字通り全ての人のこと

です。老若男女、お金持ちや貧しい人、健康な人そうでない人、能力のある人ない人、

社会的に地位のある人ない人等これらに関係なく周りにおられる人たちとの交わり

深めなさいと言われます。しかも、単に交わるのでは無くその人その人に仕える者

なりなさいといわれます。弟子たちに、これらのことを話したときそばにいた子ど

を真ん中に立たせて、「このこどもを受け入れることは自分を受け入れることだ。」

自分つまり「イエスを受け入れることは、御父を受け入れることだ」と言われました。

つまり、「小さくされた者」の中に神はおられると言っておられるのです。

 とは言っても、自分と考え、そして価値観が異なる人を受け入れることは大変な努

力が必要です。その為には、心の鍛錬と体の鍛錬が不可欠す。この両方の為に最適な

エクササイズは、登山に限ります。今月3日から始まった私のエクササイズは、2日

置き位行っていて、5回目で2分間短縮できて、55分で登れるようになりました。こ

のように心の鍛錬も出来るとよいのですが、こちらの方は、もっともっと時間が掛か

りそうです。

 

    山鼻教会機関誌「おとずれ」’16/6月号より

 

 


 

『十字架を背負って』

    主任司祭 加藤 鐵男 神父

 

 司祭叙階されて九年目になります。同期の神父は、六教区七人です。一人を除いて、

今はなくなりましたが初年度養成校の「ガリラヤの家」十三期生です。この仲間たち

と互いに支え合いながら、司祭職が続けられています。

 叙階の翌年から、同期会を「体育の日」の翌日から行うことに決めています。北か

ら南の教区へ順繰り開催とし、一巡した昨年の七回目は、沖縄で行われました。一回

目から守り続けていることがあります。毎朝ミサを行うことです。近くに教会があれ

ばそこで、なければホテルで、朝の食事前に必ず行っています。司式はその年の担当

の神父と翌年の教区の神父が行います。

 その土地の見るべきものはもちろん、観光地もしっかりと訪ねます。夜は、現地の

名物や美味しいものを食べて満喫します。食事をしながら神学生の時に戻っては、昔

話に花が咲き、失敗談が飛び出すこともしばしばです。でも、不思議と自分の教区や

主任をしている教会の悪口は、殆ど出てこないのです。それは、きっと神学院が互い

にとって楽しい思い出の場所であり、同期会が、心置きなく何でも語り合える良き居

場所になっているからではないか、と思うのです。

 叙階八年を経て私は、司祭減少の中で二つの教会の司牧と共に、教区・地区の仕事

として五つの役割を担っています。そこでは多くの人たちが関わってくださり、右往

左往する私が、助けられ支えられながら何とか役割を果たしています。

 主イエスは、「自分の十字架を背負って従え」と言われました。叙階されたころに

比べると、増えた役割と同時に背負う十字架の数も増えました。しかし、その十字架

が、ちっとも重くは、なっていないのです。そこには、すべての人に注がれる主イエ

スの深い憐れみと慈しみと愛が働いていることを感じます。弱い私も「いいんだよ、

わたしが、いつもあなたを支えてあげるから」というイエスの声に励まされ、司祭職

が続けられています。

     オリエンス宗教研究所「聖書と典礼」2016.6.19に掲載されたもの

  (オリエンス研究所の許可をいただいています。)

 

 


 

『わたしは羊の門である』

    主任司祭 加藤 鐵男 神父

 

 新年度になって、幼稚園、学校、勤務先において、新しい環境で学び、励む人々が、

異なる場所や新たな人間関係を少しずつ築きながら頑張っている事だと思います。最

の緊張感も薄れ周りがよく見える状態に、なったと思います。無我夢中の状態から

自分の立場、置かれている場所が理解出来て、これからの過ごし方、方向を確かめ、

安堵している一方で、不安を抱えている人もいるかもしれません。

 こう言う私も、この4月から山鼻教会、真駒内教会の大きな教会を二つも受け持つ

ことになりました。司祭叙階後直ちに、江別教会の主任になり、途中から主任司祭が

帰天された後の大麻教会との兼務になり、翌年は大麻だけとなって、その翌年また、

江別、大麻両教会を任されました。両教会とも少人数の家庭的な教会でしたので、顔

と名前もすぐに覚え、ある意味気楽に司牧出来ました。規模は大きくなりましたが、

育ててくれた両教会での司牧経験を生かし続けていこうと考えています。

 さて、主イエスは、自分と弟子たちとの関係を「善き羊飼いと羊の讐え」を用いて

話されます。羊は、一匹では過ごすことが出来ず、又、誰かに守られて居なければ生

きて行くことはできません。だから、年中休まずに命がけで自分たちの世話をしてく

れる「善き羊飼い」の存在が必要なのです。温かくなると麓の羊舎に帰らず中腹の石

で囲われた塀の中で一晩を過ごすことがあります。その入り口には扉はついておらず

羊飼いが間に寝て扉の代わりをします。羊が外に出る為には、寝ている羊飼いを飛び

越えなくてはならず逃げ出す羊がいればすぐに分かります。これをなぞってイエスは

「わたしは羊の門である」と言われます。草を求めてさまよい出る一匹の羊を必死で

探し、夜は狼の襲撃に備え、塀の中に囲う時には怪我をしていないかを確かめ、万全

を尽くす「善き羊飼い」は、慈しみ、憐れみ、愛をこれでもか、これでもかと注いで

下さる主イエス・キリストの姿そのものです。「いつでもわたしのもとに来なさい」

と言われるイエスの言葉に、日々安心し平穏に暮らせることを感謝できる私たちであ

ますようにと願わずにはいられません。

    山鼻教会機関誌「おとずれ」’16/5月号より

 


 

『わたしは復活でありいのちである』

主任司祭 場崎 洋 神父

 

 歴史的研究によるとイエスが死去した年月日は紀元30年4月7日であると言われてい

ます。イエスはエルサレムの郊外にあるゴルゴダという丘で十字架に掛けられて殺さ

れました。弟子たちはイエスがこんな死に方をするなんて考えてもいませんでした。

彼らは失望し、悲嘆に暮れました。あんなに素晴らしい奇跡を行い、力強いことばで

人々を魅了したイエスがこんな無残な死に方をするはずがないと思っていたからです。

彼らが抱いていたイエスの最後はこの世の権力者を屈服させ王座に君臨することでし

た。弟子たちは十字架にかけられたイエスを信じることが出来ませんでした。十字架

の死はイエスの敗北、自分たちが信じてきたものが崩壊した瞬間でした。弟子たちは

最後の最後までイエスの死の意味を知ることができませんでした。弟子たちはイエス

が語っていた不可思議なみことばにも理解不足でした。イエスの遺体がおさめられて

いた墓は空になっていましたし、いったい何が起きてしまったのか分からなかったの

です。彼らはただ家で隠れて怯えていたのです。

 「その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たち

のいる家の戸に鍵をかけていた。そこえ、イエスが来て真ん中に立ち、『あなたがた

に平和があるように』。そう言ってから・・・・・、彼らに息を吹きかけて『聖霊を

受けなさい・・・・だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの

罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る』と言われた」。

(ヨハネ福音20・19、22~23)

 イエスが復活したということは何事でしょう。どうして死んだ者が復活したのでし

ょうか。復活したイエスの姿をどのように表現したらいいのでしょうか。コンピュー

ター・グラフィックで巧妙に映像をつくったとしても、文学的に神学的に哲学的に、

芸術的に表現しても、表現しきれるものではありません。イエスの復活は私たちが認

識している時間、空間を越えます。御父は御子イエスの死と復活を通して罪を滅ぼし、

慈しみと憐れみを注がれました。主は死んだ神ではなく生きている神です。この世の

闇、罪の束縛からわたしたちを開放し、福音の光へ招き入れてくださるのです。目で

見える信仰は信仰ではありません。見えない栄光を信じる恵みこそ信仰の恵みなので

す。

 この7か月間、皆様のもとでご奉仕させていただきました。本当に支えられました。

ありがとうございます。感謝と賛美のうちに皆様のためにお祈り申し上げます。

 どうぞ、新しい赴任地へ派遣される韓神父様と、新しい主任司祭・加藤神父様のご

健康とご発展のために聖テレジアと聖母の取次ぎを願ってお祈りします。

 

   山鼻教会機関誌「おとずれ」’16/3月号より

 

 


 

四旬節黙想会「神の恵みに生かされて」 2016年3月6日

 

マリア様の写真をクリックすると、場崎神父様の黙想会の音声を聞くことができます。

          ここをクリックしてください、黙想会の資料にジャンプします。

 


 

ルカ神父の四旬節の黙想会 2016年2月14日(日)

主任司祭 場崎 洋 神父

 

 今日はルカ・ヴォナビコ神父様による四旬節の黙想会がありました。

テーマは「神さまの恵みに生かされて」です。子供たちの中に働いている神様の恵み

を楽しくお話ししてくださいました。以下は一信徒が心に残ったルカ神父様のお話し

を並べてみました。

 

 お母さんが新聞の投稿で書いていました。小学校の息子の宿題を見ていたときです。

文字のおけいこです。息子は紙に「春はきせき」と書きました。お母さんはびっくり

しました。「春はきせき」。自分の息子は詩人ではないかと思いました。何とすばら

しいことを書くのでしょうか。感心しながらずっと見ていましたら、息子は消しゴム

で下のほうの文字を消して書き直しました。「春はきせつ」になりました。これには

がっかりしました。最初は「きせき」だったのに、訂正して「きせつ」になったから

です。子供の感性を大切にしていきたいものです。「春はきせき」でいいのです。で

も大人は「春はきせつ」と文字通りの教育をしてしまうものなのです。もっと「春が

きせき」になるような発想を育んでいきたいです。

 またこれも新聞の投稿です。12歳の男の子が書いています。「どうして僕は生きて

いるのだろうか。何のために生きているのだろうか・・・・」。すばらしいことです。

スウェーデンの富豪が書いていました。「わたしは何もかも恵まれていました。地位

も冨も、財産も手中にすることができました。しかし、人間は必ず死ぬということで

す。信仰がなければ生きる意味は消えうせてしまいます。・・」。この人は自分の人

生を問い続けながら自ら命を絶ってしまいました。きっと救いを求めていたに違いあ

りません。

 次はある女の子の投稿です。「わたしは毎日 ほめほめ日記を書いています。まず

今日のよかったところを書きます。自分で自分のよかったところを書くほめほめ日記

です。こんなことをしていると本当に幸せになれます。そして今度は人のいいところ

をほめる、ほめほめ日記を書きたいです」。

 幼稚園に通っている娘のことをお父さんが新聞に投稿しています。娘は食事の前と

終わりにきちんとお祈りをします。親はそれに合せてお祈りをします。とても感心し

ます。ある夜、娘の寝室から声が聞こえてきました。茶の間のドアからその様子を両

親が観ていたのです。すると娘は「寝る前の祈り」を忘れていたようで、思い起こし

てベットの上に正座して祈ったのです。「今日は一日、いたずらばかりしてしまいま

した。どうか、かみさま、この罪びとをおゆるしください」。これには父親は驚き、

新聞に投稿したのです。子供は預言者です。神の言葉をもった預言者です。大人の心

を神様の心に向かわせる力があります。・・・・

 北イタリアの巡礼地に参加していたときに、ルカという少年が地滑りにあって重傷

を負ってしまいました。 9か月の間、意識のない状態が続きました。お母さんはいつ

も教会に通って涙ながらに祈りを捧げました。ある日、少年の意識がかすかに戻って

きたのです。お母さんは思わず息子に尋ねました。「あなたは今までどこに行ってい

たの?」。すると少年は筆談か、文字を打つソフトで「僕は天国に行ってきました」

と答えました。少年の物語は続きます。僕は天国で聖人たちや天使たちに会いました。

とても素晴らしいところだったので、ずっとそこにいたいと思いました。でも、戻り

なさいと言われて戻ってきました。母親が意識のない自分の体のそばで祈っていたこ

と、同じように寄り添う人々の姿もすべて見えました。ルカは天国について確信をも

って言うのです。「天国はあります。永遠の生命はあります」と。

 

 

 

 

『子どもの心』

主任司祭 場崎 洋 神父

 

 窓から雪が降り積もっている様子を見た男の子がお母さんに言いました。「おかあ

さん、この雪、お砂糖だったらいいね」子どもにとって砂糖はこのうえもない食べ物

です。子どもは砂糖で幸せになれるのです。(昭和35年頃のはなし)

 

 雪がしんしんと降ってくると、子どもは空を見上げました。雪がどんどん降りてき

ますから、子どもは喜びながらこう言ったのです。「すごい、すごい、ぼく、どんど

ん天国にのぼっていくよ…ほんとうに」子どもにとって雪は降ってくるものではなく、

自分がどんどん天に昇っていくようなのです。(昭和40年頃)

 

 はじめて蒸気機関車に乗った男の子が窓を見て叫びました。「お母さん、見て、見

て!電信柱がとんでいくってば・・・」子どもは機関車の速さを言っているのではあり

ません。電信柱が跳んでいくのに驚いているのです。(昭和40年頃)

 

 マリア院のシスターが横浜にいる弟に会いに行ったときの出来事です。青森発の上

野行きの寝台車に乗ったときのことです。女の子の声が聞こえてきました。「てんに

ましますわれらのちちよ・・・」寝る前の祈りだったのでしょうか。シスターはこの

光景に感動しました。天使が祈っているように思えたからです。女の子のところに近

づいて聞いてみました。すると信者の子ではなかったのですが、厚別区の「カトリッ

ク虹の森幼稚園」の卒園児だったのです。幼稚園のときに教えてもらったお祈りを大

切にしているとのことでした。お母さんがそう教えてくれました。(平成10年頃)

 

 羽田空港で千歳空港行きのジャンボ・ジェットの機内にいました。3歳くらいの男

の子が窓を覗いていました。するとこう言いました。「ママ、ママ、見て。あそこに

ジャンボ・ジェットが見えるよ。ねえママ、あのジャンボ・ジェットに乗りたい・・」

ママが息子に自分たちがジャンボに乗っていることを説明したのですが理解できませ

ん。とにかく子どもは、あのジャンボに乗ってみたいのです。(平成3年頃)

 

 ある親子が銭湯に行きました。幼稚園の息子が入れ墨のおじさんのところでこう言

いました。「おじちゃん、この汚れ(入れ墨)を洗ってあげるね・・・」父親はハラ

ハラドキドキ。息子を引き戻してすぐにあがったそうです。何も起こりませんでした。

(昭和36年頃)

 

 このように子どもは純真無垢です。素晴らしい感性をもっている預言者です。大人

は理屈と、この世の体裁で生きています。イエスは「幼子のようになりなさい」と、

言われました。四旬節の間、わたしたち大人が忘れているものを見つけていきたいで

す。それはイエスさまの復活のいのちに似ているかもしれません。難しい哲学や神学

のことばで復活を説明するより、子どもの感性が栄光に輝く心理を解き明かしてくれ

るような気がします。

    山鼻教会機関誌「おとずれ」’16/3月号より

 

 


 

『四旬節を迎えるにあたって』

                            主任司祭 場﨑 洋 神父

                         

 今年の四旬節は2月10日の灰の水曜日から始まります。四旬節第一主日(2月14日)

の福音に心をとめてみましょう。はイエスが荒野で断食し誘惑に遭われる箇所です。

 ・・・・ 誘惑する者が来て、イエスに言った「神の子なら、これらの石がパンにな

るように命じたらどうだ。」イエスはお答えになった。「『人はパンだけで生きるも

のではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある。」・・・・・

(マタイ4章1~4節)

 この世に肉体をもっている限り、あるいは精神的側面を持っている限り人間の魂は

誘惑にさらされます。無心になって神に立ち返ることは頭で分かっていても、体と精

神は究極的な思いと正反対のところへ引きずり込まれます。誘惑するものは魅力ある

言葉、「神の子なら」とささやきます。言い換えれば、「もし、あなたが神の子なら」

「もし、キリスト信者なら」「もし、立派に信仰を生きているなら」・・・。人間の

人生は英語で「Life」と書きますが、この言葉の真ん中に仮定の「if」があり

ます。人生には「if」が頻繁に登場しているのです。人間は思い通りにいかなかっ

たとき、過去に対して後悔します。「もし、あのとき~にしていれば・・・だったろ

うに」。あるいは想定していない流れに遭遇して驚きを隠せず、いま無事であったと

いう感謝を体験することもあります。あるいは「if」=「もし、わたしが誠実に生

きたならば、きっと神はわたしにご褒美をくださるに違いない」と神を試そうとしま

す。この誘惑は頻繁に起こります。社会的価値観で見届けると、実現しなかった暁に

は神を呪ってしまうことがよくあります。わたしたちは神と「取引き」をしようとい

う誘惑の中にもいます。人生は「因果応報の法則」(善い人は報われて、悪い人は報

われないこと)であるということをほとんどの人は信じています。しかい、シナリオ

通りに行く人生というものはありません。それよりも、神のはからい、神のみ摂理を

思い起こすことが大切です。

  山鼻教会機関誌「おとずれ」’16/2月号より

 

 


 

『新しい歌を主にうたえ』

 

                                                                                   主任司祭 場崎 洋 神父

 

 皆様、主の降誕と新年を心からお喜び申し上げます。皆様のうえに神様の祝福が豊

かにありますようにお祈り申し上げます。

 年のはじめに典礼聖歌3番(詩編96章1~10節)を口ずさみたくなります。

 ♪ 新しい歌を主にうたえ、新しい歌を主にうたえ(答唱)

 1.新しい歌をうたおう。さあ、み名を祝し。

   日に日をついで、主の救いを告げよ。

 2.ひとびとに主の栄と、そのみわざを語ろう。

   主は偉大な神、たたえ敬え。・・・・♪

 わたしたちは新しい年を迎えますが、どうしても時間が経過してしまうと新鮮さは

消えうせてしまいます。わたしたちはいつも習慣の奴隷になってしまうからです。そ

の殻を破る力は神からいただけることを信じなければなりません。主の力を借りずに

は何一つできないわたしたちに自分の弱さに気づくはずです。その気になれば、人は

死ぬまで再出発することができます。回心とは、自分中心の生活から神中心の生活に

移ること、まさに古い習慣から生まれ変わることです。自分のことだけを考え、自分

さえよければすべて良しと考えるなら、わたしたちの人生は失敗してしまいます。わ

たしたちは、多くの人々に支えられて生きています。死ぬ時まで、だれかの役に立つ

人生を送りたいと願うばかりです。

 信仰をもっていても、人の批判でぐらつくようでは、人間として「道の完成」は程

遠いものになります。主とわたしたちがしっかりと結びついているなら、むしろ批判

は励ましとなります。

 病気になったといっても、決して悲観したり、落胆したりする必要はありません。

まず心を静めて主のみ前で祈りましょう。病気を癒すのは医者でも薬でもありません。

それはあなたの体に備わっている自然の治療力で、最終的には主が癒されるのです。

焦るところに解決はありません。静かにすべてを主にゆだねることから始めましょう。

素直に自分を受け留めることによって、自分の体に自分の魂を据えましょう。そうす

ることによってわたしたちは本当の平安を得ることができるでしょう。(上記はバレ

ンタイン・デ・スーザ著「そよ風のように生きる」から引用しました)。そして絶え

ずパウロの言葉をもって祈り続けたいです。

 「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。あなたがたの広い心

がすべての人に知られるようになさい。主はすぐ近くにおられます。どんなことでも、

思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めてい

るものを神に打ち明けなさい」(フィリピ手紙4章4~6節)

 

  山鼻教会機関誌「おとずれ」’16/1月号より

 

 


 

『いつくしみの特別聖年』

 

     主任司祭 場崎 洋 神父

 

11月13日の夜、フランス・パリで「悪夢」が襲いました。市内中心地で爆発や乱射が

相次ぎ129名が犠牲となり、重体を含む負傷者は300人にもなりました(11月16日現

在)。オランド大統領は非常事態を宣言し、「イスラム国」の犯行と断定し、テロに

屈服せず戦い続けるとしました。地方メディアは戦後最悪のテロだと伝えています。

同組織によるテロの脅威が世界に拡散している事態を鮮明にした出来事です。各国の

首脳はテロへの戦いに不退転の決意で挑むことを強調しました。イスラム国はフラン

スがシリアで行った同組織に対しての攻撃の報復だとして声明を送っています。

 人類は「歯には歯を、目には目を」という名目で戦争を繰り返して来ました。人間

は復讐と言う憎悪に満ちた世界に引きずり込まれようとしています。憎しみと戦争は

負のスパイラルです。しかし、人間には神の似姿として創造された寛容な心と憐れみ

深い愛を持ち合わせています。

 わたしたちはこの悪夢の出来事を点として捉えてはなりません。ヨーロッパが中東、

アフリカを植民地化した時代まで遡らなければなりません。歴史を俯瞰しながら尚い

っそう和解と平和を願いながら祈り続けなければなりません。

 憎しみのあるところに愛を、争いのあるところに平和を、分裂のあるところに一致

を与えてくださいますように、いつくしみ深い父に向って祈ります。

 教皇フランシスコは恵みの年として「御父のように、いつくしみ深い者となりなさ

い」( ルカ6・36 ) をモットーに、2015年12月8日の「無原罪の聖母の祭日」から

2016年11月20日の「王であるキリストの祭日」までの間を「いつくしみの特別聖年」

として定めました。この聖年を通して、わたしたちはより一層、神のいつくしみを希

望し、信じ、隣人愛に燃えていけますように、聖母の取次ぎを願って祈りを捧げたい

です。

  山鼻教会機関誌「おとずれ」’16/12月号より

 

 


 

グローバルの中で

                                主任司祭 場﨑 洋 神父

 

 9月2日の未明、トルコからギリシャに向かうシリア難民のボートが転覆し、12名

が溺死しました。定員を超えたボートは海に沈んで行ったのです。アブダラは妻と二

人の男の子を両腕に抱きあげましたが力尽きてしまいました。二人の息子と妻は溺死

しました。その後、末の息子3歳のアイランちゃんの遺体が浜辺に打ち上げられたの

です。そのときに撮られた写真が世界中に飛び回って、人々がこの画像を見て衝撃を

受けました。今世界は戦争で国を追われ、ボートで脱出した悲しい家族の物語を心に

刻まなくてはならないでしょう。写真を撮ったトルコ人カメラマンは、アイランちゃ

んの遺体を見て『血が凍りついた。私にできる唯一のことは、彼の叫びを世界に届け

ることだけだ」と語りました。わたしたちはアイランちゃんの悲劇から、今もなお、

シリアで戦争に怯え、泣き叫ぶ子供たちの声が聞こえてくるのを感じます。主よ、子

供たちに平安を与えてください。すべての人たちが主の道具となって平和のために働

くようにしてください。内戦でやむなく故郷を離れたシリアの人たちは400万(トル

コに190万、レバノンに120万、ヨルダンに60万)。さらに国内にとどまっている難

民は760万とされています。難民避難民を合わせると1,100万人にもなります。内戦

勃発前のシリア人口が2,200万人でありましたから国家の半分が家を失ったことにな

ります。9月初旬、ヨーロッパに流れたのがトルコに逃げていた難民でした。世界的

シンクタンク・経済平和研究所が毎年発表している「世界平和度・指数」によると最

下位の国は内戦が続くシリアで2年連続でした。

 世界がグローバルしています。戦争から逃れるため、アフガニスタン、スーダン、

シリアから多くの難民が安住の地を求めています。移動中に亡くなっていく難民も少

なくはありません。私たちに物語があるように、彼らにも物語があります。神様から

賜った同じ命でありながら、彼らは生き延びるために数千キロから1万キロの旅をし

ているのです。わたしたちに何ができるのでしょうか。今日もわたしたちは問われて

います。

  山鼻教会機関誌「おとずれ」’15/11月号より